登頂の達成感・爽快感が登山を続ける理由
東京でクリニックを営む医師であり、山岳医としても活動する橋本しをりさん。ガッシャーブルムII峰8,035m峰に立ち、日本山岳会初の女性会長も務める登山家です。
彼女が登山と出会ったのは中学2年生。学校行事で北アルプス(燕岳~槍ヶ岳)を縦走した際、目の前に広がる景色や、いくつものピークを越えて辿り着いた達成感・爽快感に心を奪われたといいます。
「登っている最中や下山直後は、もう二度と行くものかと思うんです。でも、すぐにまた行きたくなる。その感覚は今も変わらないですね」

1977年5月。学生時代、槍ヶ岳の北鎌尾根にて。

1988年、ガッシャーブルムⅡ峰の山頂にて。
山という特殊環境は、研究の場としても最適
橋本さんの専門は脳神経内科。脳卒中や頭痛、パーキンソン病などを診てきた医師である一方、国際資格である国際山岳医としても活動されています。国際山岳医とは、高所や寒冷地といった特殊な環境での医療に対応する国際資格です。
「求められるのは、主に全身管理と救急医療に関することです。全身管理というのは、特定の部位ではなく全身を総合的にモニタリングして維持・管理すること。それ以上に大事なのは、十分な医療器具や検査器具のない山の中でしっかりと医療をおこなえるかどうか。また、高所まで行ける体力や登山技術があることも重要です」
医師である橋本さんにとって、山は単なるフィールドではありません。
「低酸素環境というのは、人体の生理的反応を観察できる、自然が用意したかのような実験的状況といえます」
医師になってすぐ、女子登攀クラブでブータンのセプチュカン峰(5,200m)に登頂した際は、自ら検査機器を持ち込み自律神経のデータを計測。被験者であり研究者でもあるという立場で、低酸素環境における人体の変化を記録してきました。
「富士山の山頂でも血中酸素飽和度は60~70%台まで下がります。コロナ禍では、93%を下回ったら救急車を呼びましょうと言われていました。それだけでも、山がいかに特殊な環境かわかります」
橋本さんが山での研究をおこなっていたのは、医師としての使命感以上に山登りを続けたい一心だったからというのもユニークです。
「長期遠征など、山登りを優先すると医師に限らず職を失う事がままあります。私は研究という理由で登山が続けられたのはラッキーでした。皆が体調を崩さないように、医者が必要にならないように気を配りました」

「濡れないこと」が生死を分ける──GORE TEX® プロダクトとの出会い
そんな特殊環境下において、橋本さんが強く実感してきたのが装備の重要性です。なかでも印象的なのが、GORE TEX® プロダクトとの出会いだったと言います。
「昔は冬山用のジャケットは分厚いプルオーバーしかなくて、汗をかくと暑いし、濡れるとなかなか乾かない。下着も今のような吸湿速乾素材はなくて、セーターや毛の股引きを使っていました」
状況を大きく変えたのが、防水透湿素材の登場でした。
「最初に使ったGORE TEX® プロダクトはジャケットだと思いますけど、機能性を強く実感したのはテントでした。結露がなく、朝起きても冷えていない。“これはすごい”と遠征隊の仲間で話したことを覚えています」


現在愛用しているGORE-TEX® プロダクトのハードシェル。登山ギアは主にカモシカスポーツで購入することが多いそう。
長く愛用しているのが、寝袋を覆うシュラフカバーです。
「冬山で寝ていると、吐く息で顔まわりが凍って濡れてくるんです。それがすごくストレスで、健康リスクにもつながる。初めてGORE TEX® のシュラフカバーを使ったときは、シュラフが濡れずに感動しました。これがあると守られている感覚があるのです。
もう20年以上使っていますが、大事なものだからこそ、持っていくのは冬山のときだけにしています(笑)」


20年以上愛用するシュラフカバー。外側からの水の浸入は防ぎながら、内側から汗を逃がすことをイラストで示した、GORE TEX® プロダクトの旧ロゴが確認できる。
後述しますが、橋本さんは「汗をかくこと、濡れることが一番怖い」と何度も話されていました。濡れた状態で風にさらされれば、急激に体温を奪われるからです。そのようなリスクを軽減する意味でも、防水性と透湿性を兼ね備えたGORE TEX® プロダクトは「画期的だった」と話します。また、「耐久性が高く長く愛用することができるのも魅力」だと語ってくれました。

冬山で活躍するボアキャップ。愛用しているのはHERITAGEブランド。
低体温症や高山病などの対処方──安全に登るために
登山における一般的リスクとして、橋本さんが挙げるのは外傷・熱中症・低体温症、そして高山病です。
「私は薄着での登山が好きなのですが、そこには汗をかかないようにという思いがあるんです。
低体温症が起こりやすいのは、汗や雨、雪などで衣服や身体が濡れた状態で風を受け続けるとき。体温が35℃以下に低下すると、体のさまざまな機能が低下して、進行すると呼吸停止や心停止に至ります。そこまで行かなくても、濡れて体温が下がれば風邪をひきやすくなります」
一方、高山病は低圧や低酸素といった高地環境に適応できず、頭痛・疲労・めまいなどさまざまな症状をきたす状態です。
「高所は低酸素なので息苦しくなります。早く歩くとなりやすいので、まずは水分を多めに摂りながら、ゆっくりと登ることが大事。休んでいるうちに順応することもあるので、腹式呼吸を心がけながら上体を起こしておくとラクになります。症状が重ければ無理せず下山しましょう。
また、高所では持病が悪化しやすいので、服用している薬があるのなら必ず持参することをお勧めします」
登山はQOLを高める──“内省の時間”という価値
近年、橋本さんが大事にしているもうひとつのテーマが、「登山と生活の質(QOL)」の関係です。
2000年におこなった「がん克服日米合同富士登山」では、登頂前後での参加者のQOLスコアの変化を調査しました。結果は、身体症状や気分、不安に関する指標に明確な改善が見られました。

院内に飾られているキルトのタペストリーを前に。米国乳がん財団からの提案をきっかけにおこなわれた「がん克服日米合同富士登山」(2000年8月)を記念して制作されたもの。
「登山は自分で計画を立てて、自分の足で歩く。有酸素運動でありながら、頭も使うわけです。そして何より、山では内省の時間を持つことができます」
日常から切り離された環境のなかで、自分と向き合う時間が生まれる。それが心身の回復につながるのではないかとも話されました。
「あとは、テントを張って地べたに寝ること。あれが気持ちいいんですよね」
現在、橋本さんは女性のがん体験者のための山登り・ハイキングの会「FRCC」を主催。月1回の登山活動など、QOL向上に向けた活動を続けています。
「登山でがんを治そうという活動ではありません。それは主治医の方にお任せしています。私はあくまでも、登山を通じてその人の人生をより良くしてほしいと思っています」

2007年、米国乳がん財団とFRCCが合同で実施した北アルプスの奥穂高岳登山 涸沢にて。
「ゆっくり登って、ダメなら帰る」──山と長く付き合うために
最後に、これから登山を始める人へのアドバイスを聞きました。
「ゆっくり登ること。そして、具合が悪くなったら引き返すこと。それが一番大事です」
さらに、日常での準備も重要だと言います。
「登山の前に筋トレをして、転ばない身体をつくること。それだけでも安全性は大きく変わります」
橋本さんの話を聞いていると、登山は単なるアウトドア アクティビティではなく、身体を知り、自分の生活を見つめ直す時間であることを感じました。そんな時間を長く楽しむためにも、安全のための知識や正しい装備を身につけることは、山と付き合うための第一歩だといえるでしょう。

橋本しをり(沢田はしもと内科 院長/国際山岳医/日本山岳会 会長)
東京女子医科大学時代にワンダーフォーゲル部に入部、休部中だった山岳部を復活させる。1983年には女子登攀クラブのブータン登山に医療担当として参加。88年ガッシャーブルムII峰に隊長として登頂、2002年日中友好チョー・オユー女子合同登山隊隊長、05年日中友好チョモランマ女子合同登山隊隊長を務める。01年に女性のがん体験者のための山登り・ハイキングの会「FRCC」を設立。23年女性初となる日本山岳会 会長就任。26年『人生100年時代の安全登山ハンドブック』を上梓。
原稿:富山英三郎 写真:江原将太朗、橋本しをり提供 編集:ユーフォリアファクトリー